「受賞者を苦しめる奇妙な賞」国民栄誉賞がイチローからも大谷翔平からも辞退されるワケ |
【2021年12月30日(木) プレジデントオンライン】 メジャーリーグ・エンジェルスの大谷翔平選手が2021年11月、国民栄誉賞の受賞を辞退した。神戸親和女子大学の平尾剛教授は「近年の受賞者は現役スポーツ選手が続いている。受賞基準が曖昧で、受賞をためらわせる賞はやめたほうがいい」という――。
■祝賀ムードに水を差した国民栄誉賞の打診
2021年11月19日、メジャーリーグ・エンジェルスの大谷翔平選手がアメリカン・リーグのMVPに選ばれた。日本選手としては2001年のイチロー氏以来20年ぶりで、さらに全米野球記者協会に所属する記者30人の満場一致で選出されたのも6年ぶりという快挙である。その大谷選手に国民栄誉賞の授与を打診したと松野博一官房長官から発表されたのは、MVP獲得のわずか3日後だった。大谷選手が「まだ早い」と受賞を辞退したのは周知のとおりである。MVP獲得から国民栄誉賞の打診、そして辞退へと、この間の流れはじつに気忙(けぜわ)しかった。投手と野手の二刀流という、これまでの常識を覆す挑戦が評価されてのMVP獲得を、もっと堪能していたかったというのが私の本音である。これまでの活躍を振り返り、その余韻に浸りながらじっくり言祝(ことほ)ぐのがファンの楽しみだからだ。そんな思いも虚しく、ほどなくして世間の興味は大谷選手の輝かしい実績から「国民栄誉賞」へと移り、「MVP獲得」はいつしか遠景に退いた。私はそれが残念でならない。これほどメディアが騒ぎ立て、たとえ辞退したとしてもこれだけニュースになる賞は、他には見あたらない。この祝祭の余韻に水を差したのはどう考えても「国民栄誉賞」である。楽しみを奪われた一人のファンとして、あらためてこの賞について考えてみたい。
■MVP獲得をまるで待ち構えていたかのようだった
内閣府によれば、国民栄誉賞はいまから44年前の1977年に始まっている。「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉をたたえること」が目的で、これに該当する個人や団体を内閣総理大臣が随時、表彰することとなっている。大谷選手の活躍とその知名度からすれば、表彰そのものに異論を唱える人はいないはずだ。過去の受賞者を振り返っても、ひとりの例外もなく「広く国民に愛され」た人物および団体で、その功績が「社会に明るい希望」をもたらしたのは論を俟(ま)たない。だが、この基準が曖昧であることもまた事実である。五輪でいえば、シドニー大会の女子マラソンで陸上競技日本女子初となる金メダルを獲得した高橋尚子氏や、世界選手権と合わせて13大会連続世界一(当時)を達成した吉田沙保里氏、また五輪史上初の女子個人4連覇を成し遂げた伊調馨氏が受賞しているが、これらと遜色ない大会3連覇を成し遂げた谷亮子氏や野村忠宏氏は受賞していない。「広く国民に愛され」「社会に明るい希望」をもたらしたにもかかわらず、である。功績に明確な基準がないこと、そしてメジャースポーツの選手に受賞が偏っていることも国民の不信感を招いているといえる。だが今回私が引っかかるのはここではない。授与の打診をしたのがMVP獲得のわずか3日後という、その迅速さである。まるで待ち構えていたかのような素早い打診に、どうにも違和感が拭えないのだ。賞の目的が社会への影響を考慮していることからも、国民やファンを慮(おもんぱか)り、MVP獲得そのものをよろこぶための余韻を残す配慮があってもよかったはずだ。なにより大谷選手自身がその余韻が欲しかったはずである。
■大谷翔平はスポーツ・ウォッシングの格好のアイコン
ここから私はある恣意(しい)を読み取る。スポーツの政治利用である。つまり「スポーツ・ウォッシング」だ。スポーツ・ウォッシングとは、米パシフィック大学教授のジュールズ・ボイコフ氏がオリンピックを批判する際の論点の一つで、権力者が自分たちに都合の悪いことをスポーツの喧騒で洗い流すという意味である。スポーツの健全なイメージを使って民衆の関心を集め、政治をはじめとする社会問題から私たちの意識をそらす手法だ。今夏に開催された東京五輪でもこの効果がみられたことはすでに書いた。メディアは視聴率や閲覧回数、購買数を稼ぎたい。だからスポーツにおいて知名度が高い人物あるいは団体が受賞すれば、こぞってそれを報じる。報道各社は取材や原稿の執筆に人手を割き、編集された映像やテキストが限られた放送時間や紙面の一部を埋める。こうして権力者にとって都合の悪い情報は隅に追いやられる。スポーツは親しみやすく、思想信条に縛られないカジュアルさを備えている。「堅いことをいうな」という空気を漂わせる祝祭ムードを醸成するにももってこいである。とりわけ日本のみならず世界中にファンを有し、悪評する人がほぼいないという「大谷翔平」は、スポーツ・ウォッシングをするには格好のアイコンである。矢も盾もたまらずその「洗浄力」に食いついたのが「3日後の打診」だったのだろう。
■現役スポーツ選手への授与があからさまに多くなった
最近の受賞者の顔ぶれからも、スポーツ・ウォッシングをうかがうことができる。2011年に、FIFA女子ワールドカップドイツ2011日本女子代表チーム以降に受賞した8人のうち、吉田沙保里氏、長嶋茂雄氏、松井秀喜氏、伊調馨氏、羽生結弦選手の実に5人がスポーツ選手である。残りの3人も、本来は神事でありながらいまや限りなくスポーツに近づきつつある大相撲の故・納谷幸喜氏(元大鵬関)と、チェスに代表されるマインドスポーツに含めてもおかしくない将棋の羽生善治氏、囲碁の井山裕太氏で、これらを広義におけるスポーツ選手と捉えれば全員がそうなる。つまり直近10年間の国民栄誉賞はすべてスポーツ選手およびチームが受賞している。
■人気の絶頂を狙い撃ちしている近年の国民栄誉賞
さらに見逃せないのは、最近になって現役選手に授与を打診する傾向である。人生の前半に引退時期が訪れるスポーツだから、過去を振り返っても現役時代の受賞は珍しくない。現に王貞治氏、山下泰裕氏、故・衣笠祥雄氏、吉田沙保里氏、伊調馨氏などが現役時に受賞している。だが、いずれも選手時代の晩年で、累積本塁打数や連続出場記録、複数大会にまたがる記録など、現役時代を総括した功績をたたえられている。スポーツ以外の受賞者を含む全体を見渡しても、現役を退いたあとか死去してからの授与が大半を占める。つまりこれまでの国民栄誉賞は、選手時代や人生そのものを通じた長いスパンでの功績をたたえる性格を備えていた。それが近年では、羽生結弦選手や井山裕太氏など、道半ばでまだ若い選手にその授与を打診する傾向にある。過去に3度、受賞を断っているイチロー氏もそうであった。スポーツ選手が最も輝くのは脂の乗った現役時代である。それなりに経験を積んだ若々しい肉体が発揮するパフォーマンスに人々は熱狂し、世間の注目はピークに達する。だが引退が近づくにつれてパフォーマンスは下降をたどり、それとともに人気も陰る。引退してからも人気を博する選手はいるが、現役時のそれと比べればいささか沈静化するのは否めない。ましてや没後となればそうである。現在進行中の沸騰するような人気はやはり現役時代のみである。これらの傾向から、近年の国民栄誉賞はスポーツの親しみやすさにつけこみ、その人気が絶頂を極める現役時期を狙って受賞者が決められていると推測しても差し支えないだろう。
■受賞よりも辞退が評価される滑稽な賞
いかなる賞も、受賞者はもちろんそれを祝う人にとっても本来はよろこばしいものである。功績を残した者をたたえるのはなにより気持ちがいい。誰かが努力を積み重ねて達成した結果をともによろこび合うことは、社会的な動物である人間としての本能を刺激する。「仲間」への祝福はこの上ないポジティブな感情を湧き立たせる。わが子やその友達、学生時代の友達や職場の同僚など身近な人への祝福は、場合によっては多少の嫉妬が芽吹くかもしれないが、総じてグッドニュースである。いわば「よろこびのお裾分け」が祝福の本質だ。だが近年の国民栄誉賞はそれが希薄になっている。冒頭に述べたとおり、むしろ祝祭ムードに水を差しているように思えてならない。辞退した大谷選手には、国内のみならずアメリカでも称賛の声が集まっているという。いまの自分には過分であると辞退した態度が謙虚さの表れであると評価されたわけだ。だがよくよく考えれば、受賞よりも辞退が評価され、それがまるで美徳であるかのように受け取られる賞はおかしい。滑稽だといってもいい。いつしか国民栄誉賞は、授与を打診された者に受賞をためらわせ、辞退を決意させるほどに色がついてしまった。このまま賞の価値が下落し続ければ厄介なことになる。スポーツへのイメージダウンもさることながら、とりわけ強調したいのはこれまでの受賞者の栄誉への毀損(きそん)である。彼らと同時代を生き、その功績を肌身で知る人たちからすれば、彼らへの敬意は揺らがないだろう。だが、未来を生きる人たちにとっては必ずしもそうではない。もしこれから先もいまと同じような仕方で存続し、賞を辞退することがトレンドになれば、過去の受賞者を、授与を甘んじて受け入れた者として軽視する視点がつくられかねない。功績を残した人物にケチがつくような事態の到来は、是が非でも避けなければならない。
■スポーツにケチがつく国民栄誉賞はいらない
大谷選手は「まだ早い」という理由で辞退した。過去に3度も授与を打診されたイチロー氏も、「人生の幕を下ろした時にいただけるように励みます」と、同じような理由を口にしている。ここから考えると、少なくとも「顕著な業績」を人生(スポーツなら競技人生)という長いスパンで選考することが求められるのではないか。受賞者の心理的な負担を軽くするためにも、少なくとも2011年以前のような受賞のあり方に戻す必要があるだろう。もしかすると賞を授与する側からすれば、たとえ辞退されてもこれだけ世間をにぎわすのならそれでよしと考えているかもしれない。スポーツの「喧騒」で洗い流すことが目的なのだから、受賞を受け入れるかどうかは二の次と高をくくっているのかもしれない。もしそうなら、国民栄誉賞そのものをただちにやめるしかない。受賞者にも、スポーツそのものにもケチがつくような国民栄誉賞なら、もういらないと私は思う。
---------- 平尾 剛(ひらお・つよし) 神戸親和女子大教授 1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。 ----------
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