応昌期
オウ・ショウキ
Inhg Changqi
イン・チャンクィ
1917年10月23日生れ

台湾人
アマ5段。応昌期杯の創始者。1997年8月27日大腸がんで死亡。享年85歳。
棋風:
渾名:

Wikipediaの情報 応氏囲碁規則報 写真 写真
【1997年9月3日 読売新聞東京夕刊 文化(横)】
台湾の実業家で、台湾囲碁界のスポンサーとして囲碁の普及に力を注いできた中国囲棋会会長、応昌期氏が8月27日、大腸がんで亡くなった。八十五歳だった。応氏は、1983年に囲碁教育基金会を設立。基金会の主催で1988年、国際棋戦「応昌期杯」を創設した。4年に一度開かれる大会で、日本円で約4000万円の破格な賞金と独特のルールが関係者を驚かせた。とくに応氏の囲碁観を反映した「応昌期ルール」は、対局の際に先手番に与えられるハンデの「コミ出し」を七目半(日本は五目半)としたり、考慮時間をすべて使い切ってしまったときに、相手にコミを与えることで一定の考慮時間を“買う”など、日本では考えられない大胆な発想が組み込まれている。さらに囲碁人口が急速に伸びている欧州に資金援助して「応昌期ルール」による大会を開くなど、精力的な活動は目を見張るものがあった。ルールの問題で日本の棋士から反発の声もなかったわけではないが、その情熱は、高く評価されていいだろう。
ところで、日本と台湾の囲碁の結びつきは強い。林海峰九段や王立誠、王銘ワン九段など、多くの才能ある少年が日本にきて修業し、活躍している。こうした人材流出を危惧(きぐ)する台湾囲碁界は十五年前にプロ制度を発足させ、“独自”のプロ育成を目指した。今年の世界選手権・富士通杯では、17歳の周俊勳七段が大竹英雄九段を下すなどその成果が実を結びつつある。が、日本や中国、韓国のような“囲碁大国”になるには強い指導者とともに強力なスポンサーが必要不可欠でもあるのだ。1989年、日本棋院から囲碁の普及、発展の功労者に贈られる「大倉賞」を受賞。応氏の訃報(ふほう)が関係者を巡った際、長男の応明皓氏は、応昌期杯の存続など囲碁普及の継続をいち早く発表しているが、台湾囲碁界にとって、ひとつの正念場といえるかもしれない。

【1997年8月27日 読売新聞】
台湾の中国囲棋会会長・応昌期(おう・しょうき)氏が1997年8月27日午前10時30分に大腸ガンのため、台北市の病院で死亡した。享年85歳。台湾の囲碁普及のため「応昌期囲棋教育基金会」を設立し、1984年に世界青少年囲碁大会を創設、1986年には4年に1回開催される「応氏杯世界プロ囲碁選手権戦」を創設し、1990年にはヨーロッパ応氏杯大会と北米応氏杯大会を創設する等、国際化に努めた。
【1988年9月1日 読売新聞東京朝刊[顔](文化部 藤井 正義)】
Ing Changki 中国・浙江省の生まれ。小学校卒業後、上海に出て独学で福建省銀行の入行試験に合格した。台湾の中国囲棋会会長。74歳。「つい最近まで、碁の実力は日本の独壇場だったが、このところ中国の驚異的なレベルアップがあり、韓国、台湾も力をつけてきた。読売新聞社さんもアマチュアを含めた世界選手権を発足させたし、もうそろそろプロの世界一を決めてもいい時期」と思い立ち、国境を越えて関係者を口説き回り、北京で先月下旬、第1回「応氏杯世界プロ囲碁選手権」開催にこぎつけた。出場は、日本からの5人をはじめ、中国、韓国、アメリカ、オーストラリア、台湾の計16人。おかげで中国と国交のない韓国棋士の初の中国入り、台湾選手のあらゆる競技を通じて初めての中国大陸での試合も実現した。勝ち残った日、中、韓、台選手による準決勝は11月に台湾で、続いてその勝者の出身地で決勝戦を行うが、優勝賞金40万ドルや選手の滞在費など計120万ドルはかかると思われるすべての費用をポケットマネーで負担した。“囲碁外交”の立役者である。
銀行員時代、日中、国共の二つの戦争で重慶、台湾・台北に移住。1946年から63年まで、台湾銀行に勤めたあと、食品、紡績、化学工業、証券会社などを経営して財を成した。「碁は、小学校の校長だった父親と友人が打っているのを見て覚えた“門前の小僧”。現在アマ五、六段の腕前だが、病が高じてまして……」と笑う。1982年にも私財250万ドルを基金にして「応昌期囲棋教育基金会」を作っている。世界少年少女囲碁大会や日台若手棋士対抗戦なども主催しており、台湾のプロ棋士の生みの親でもある。独自の囲碁ルールもつくっており、「碁が世界の公式競技として認められるまでがんばる」と情熱を燃やしている。