小林覚 こばやし さとる Kobayashi Satoru | 1959年4月5日生れ 長野県松本市出身 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木谷実門下。1974年入段(15歳)。1974年二段(15歳)。1975年三段(16歳)。1976年四段(17歳)。1977年五段(18歳)。1979年六段(20歳)。1982年七段(23歳)。1984年八段(25歳)。1987年九段(27歳)。 小林4姉弟(長女・小林千寿五段、長男・小林健二七段、次男・小林孝之準棋士二段)の末弟。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
棋風:手厚く打つタイプ。決断が早く、日本棋士の中では早打ちの方。 揮毫:天空(てんくう) 小林覚著作集 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル獲得数:11個(うち世界タイトル:1個)
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2002年1月1日以降国際棋戦成績=5勝4敗(対韓国:2勝2敗、対中国:3勝2敗、対他:0勝0敗)
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【2006年9月25日 朝日新聞「棋士快声」(荒谷一成)】 10月に始まる本因坊リーグに3期ぶりに復帰した。名人、棋聖各リーグ合わせて3リーグに同時参加だ。「三つともは初めて。去年は最終予選の決勝で山田規三生九段に敗れたので、決勝で勝ててうれしい。1年を通して今一番打てている棋士と毎月対戦できるのは、贅沢なことなんですよ」。ちなみにタイトル保持を含めて3リーグ所属は張栩名人、依田紀基九段の3人だけである。 棋聖リーグのBで目下3勝1敗で同率トップ。10月の最終局で今村俊也九段に勝てばシード順が優位なのでリーグA優勝者との挑戦者決定戦進出だ。1995年から連続8期、時の第一人者・趙治勲棋聖と死闘を演じた。タイトルを奪取し、初防衛に失敗して即挑戦。「ぬるかった僕の碁の幅が広がった。ややっこうしい局面での選択肢が増え、大きなプラスです」。この棋聖戦に先立って1990年から連続3期、やはり全盛期の小林光一碁聖に挑戦したのも「すごい財産になっている」という。 もう若くはない自覚が、毎日の腹筋100回、背筋30回、腕立て伏せ80回を課している。盤外では、6年前、中国遠征中の酒席で酔って棋士仲間にけがをさせて対局停止処分を受けたかと思うと、3年前には子供同士の結婚を機に中国往年のスーパースター聶衛平九段と親類にもなった。起伏と意外性に富む半生である。「様々な出来事が自分の碁にどう繋がっているか分からないが、いい碁を打つよう心がけるだけです」 2000年12月26日、春蘭杯中にトラブルを起こし、1年間の謹慎処分を受けたが、2001年9月1日に謹慎処分解除となった。この事件については内藤由起子氏、林道義氏など多くの識者が論評している。 |