金秀俊 きん しゅうしゅん Kim Su-joon キム スジュン | 1979年1月24日生れ O型 韓国出身 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
趙治勲門下。1996年入段。1996年二段。1997年三段。1998年四段。1999年6月五段。2000年8月六段。2002年11月七段。2007年7月31日八段(勝ち数=150勝昇段)。2018年10月12日九段(勝ち数=200勝昇段)。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012年12月31日現在通算成績=??勝??敗
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棋風:力強く戦っていくタイプ。 揮毫:新創 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005年9月(30期)新人王戦優勝(26歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001年1月1日以降国際棋戦成績=0勝2敗(対韓国:0勝2敗、対中国:0勝0敗、対他:0勝0敗)
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日本棋院の情報 日本経済新聞e-碁サロン 写真(26歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【2005年10月17日 朝日新聞「棋士快声」(荒谷一成)】 あの16歳の天才少年・井山裕太四段(現在七段に昇段)を新人王戦の決勝3番勝負で破った。「10歳も年下と打つのは珍しいし、はい、負けたくなかったです」 その後の阿含桐山杯決勝戦で井山が名人戦の小林覚挑戦者を破って優勝したのはご存じの通り。「小林より強い井山。井山より強い金」となれば、相当な強豪である。 20歳前後に同世代の張栩名人、山下敬吾天元らと並び、将来を期待された逸材だ。過去、新鋭棋戦の準優勝5回。出遅れ気味だったがようやく脚光を浴びた。 貿易会社勤めの父親の転職先の横浜で生れ、少年期はソウルと日本を行ったり来たり。囲碁はアマ5、6段の父親に手ほどきされ、趙治勲十段の内弟子を7年ほど経験した一番弟子である。 「趙先生から学んだのは、碁に向かう姿勢の厳しさです。その後お酒を飲んだり、だらしない生活で回り道をしました」 笑顔を絶やさず率直に語る。出遅れた自覚の一方で「棋士人生は長い。最後に勝てればいいか、という気もあります」。 日本囲碁界で育ったが、今は母国・韓国の囲碁界の方が活気に溢れている。「日本の碁は一手に色んな意味が含まれていて、味わい深いものがある。韓国の碁は直線的。日本が『これでいいだろう』としていた点を、韓国は『追求の余地がある』と深く研究する姿勢の違いも大きい」 師匠とは昨年から2回対戦し2連勝。出藍の兆しだろう。 【2004年1月23日 毎日新聞「この一手」(石井妙子)】 金七段は韓国・ソウルの生れ。中学生の時来日して、趙治勲門下となり内弟子生活を送った。当時の趙門下は起床時間からきちんとスケジュールが決められ、勉強時間は最低でも8時間を下らなかった。そんな環境下で持ち前の才能に磨きがかかり、金七段は入段前から「趙先生の所に恐ろしく強い男の子がいる」と評判を取るようになった。 入段してからの活躍ぶりも目覚しく、特に周囲を驚かせたのは入段2年目の棋聖戦での快進撃だった。当時、二段戦で優勝したのを皮切りにあれよあれよと階段を駆け上がり、最高棋士決定戦へ進出したのである。決定戦は10人からなるトーナメント戦、後数回勝てば棋聖の座にある師匠と7番勝負を争う所まで迫ったわけだ。結果的に決定戦では1回戦で負けたものの、この一件でますます「金秀俊」の名は高まったのだった。 しかし、金七段はその後、棋聖戦でのような快進撃を見せることがなかなかできなかった。俊英戦などで決勝戦までは勝ち上がることがあっても優勝か決められない。そうこうしているうちに、同年代のライバルであった山下敬吾や張栩が先に一線へと飛び出していった。少し低迷が続いた金七段。最近、再び調子を上げてきた。昨年の成績は44勝13敗。「大事な一局に負けているし、自分ではそんなにたくさん勝てた実感はありません」と本人はいう。 金七段は2年前に師匠の元を離れて、都内で一人暮しを始めた。自分で自分を律する生活のリズムを、最近やっとつかめたような気がすると語る。無邪気な笑顔は変わらないが、タフになった感じがしなくもない。「同期の活躍はいい刺激になりますが、自分は自分。毎日、どう勉強して過ごすかが僕にとって一番大切なことだと思う」。大器、金秀俊七段。本当の快進撃が始まるのは、きっとこれからだ。 【「囲碁講座」2003年8月号(高見亮子)】 お父さんの仕事の関係で横浜で生まれ、小学2年から5年まで日本で過ごした。12歳の時、趙治勲九段が内弟子を募集するという囲碁雑誌の記事をソウルで見たのがプロ入りのきっかけ。「興味があった。なぜかはよく覚えていませんが、引かれました」。趙治勲九段の兄、趙祥行五段のソウルの自宅で1年間内弟子生活をした後、千葉の趙治勲九段宅で本格的な内弟子生活が始まった。 院生3年目の時、時々訪ねてくれた祥行五段から「今年入段ができなかったら韓国に帰れ」と言われたが、入段できなかった。秀俊少年は治勲師匠に「あと1年だけいさせて下さい」と願い出て、必死に勉強、16歳で入段を果した。 「尊敬する棋士は趙治勲先生と坂田栄男先生」。「こういう人になりたいという意味ではなく、人にないものを創っていく厳しさを見習いたい」という。色紙に「新創」と揮毫してくれた。 |