松本武久
まつもと たけひさ
Matsumoto Takehisa
1980年9月8日生れ

長崎県出身
1991年(第12回)小学生名人戦優勝(小学5年)。1992年(第13回)小学生名人戦優勝(小学6年)。小学生名人を2連覇。これをきっかけに趙治勲九段にスカウトされる。1997年4月1日入段。1997年二段。1998年三段。1999年四段。2001年五段。2003年5月六段。2008年4月1日七段(賞金ランクで昇段)。2018年5月11日八段(勝ち数=150勝昇段)。
棋風:戦いが得意なハードパンチャー。
揮毫:
2006年10月(第31期)新人王戦優勝(26歳)
日本棋院の情報
【2006年10月16日 朝日新聞「棋士快声」(荒谷一成)】
第31期新人王戦の決勝3番勝負で今月、黄翊祖七段に2勝1敗で逆転優勝した。プロ入り10年目にして初の棋戦優勝である。「年々成績が落ちて、タイトルとは無縁のまま終わるのかなと沈むことが多かったので、嬉しい。自信が持てました」。趙治勲門下。昨年の新人王・金秀俊七段は生れもプロデビューも1年先輩の兄弟子だ。木谷道場の衣鉢を継ぐ趙治勲一門は開花期に入ったようだ。
父親が全国を転勤した会社員。東京の幼少期、緑星囲碁学園に通っていた。香川県の高松中央小学校5、6年生で連続して小学生名人になったことが棋士への導火線となった。当時本因坊の趙治勲が「週刊碁」の企画「腕自慢少年と打つ」で高松を訪れた。2子局で「手堅く負けた」のはそれとして、ほろ酔いの趙治勲が夜半に自宅まで乗り込んできたのが発火点となった。7子から一番手直りで4子まで進み、「ウチに来ないか」。小学校卒業と同時に千葉の趙治勲の内弟子となった。7年半の修業を積んで20歳の時に独立。2DKのアパートは師匠宅と徒歩10分の近さだ。
今春、パソコンのプリンターが壊れたので、毎週届く最新の棋譜を内弟子時代のように手書きで整えた。「一手一手写すうちにやる気が起きて、碁が面白く感じられるようになった」。次の目標は国際戦の予選突破だ。韓国の三星火災杯の予選に過去5回参加したが、1、2回戦で敗れて本戦に進んだことはない。

【「囲碁講座」2004年3月号(高見亮子)】
プロ7年目の2003年、松本六段は勝ち星ランクング上位に名を連ねた。最も印象深かったのは名人戦予選で小林光一九段を破った一局だ。「一流の先生といい勝負ができた、勝って自信になりました」。好調の理由は勉強方法を変えたこと。同じ趙治勲門下で寝食を供にした鶴山淳志五段の活躍も刺激になった。研究会では「ダメな意見かもしれませんが、自分の意見を言えるようになりました」と胸を張った。
囲碁は5歳の時にお父様から習い覚えた。たちまち大好きになり、親戚のおじさんをつかまえて「打とう打とう」とせがんだそうだ。それから緑星学園に通い始める。「当時は弱い子は入れてもらえなかったはず。僕がどうして入れたのかよく覚えていないのですが、とにかくダントツに弱かったです」。もまれて強くなっていった武久少年は香川に引っ越したため緑星学園から離れるが、その後平成12年、13年と5年6年で小学生名人を2連覇する。
優勝のご褒美に趙治勲九段に打ってもらったのが、転機となった。「家に来なさい」と勧められ、中学1年から千葉県土気での内弟子生活がスタートする。当時、趙先生は生活面でも厳しく、夜、ふらりと買い物に出たりすると「普通の人ならビックリするほど」怒られた。趙治勲九段に入門してからは、7年間、内弟子生活を送った。入段した今も、土気に住み、師匠の研究会に週4日通う生活を送っている。
目下の目標は「集中力を付けること」だそうだ。将来は「人間的にも慕われるような棋士になりたい」という。昨年は「あと一つ」で本戦入りという機会を2回逃した。「今年は新聞棋戦の本戦に入りたい」と宣言してくれた。