藤沢秀行 ふじさわ ひでゆき Fujisawa Hideyuki | 1925年6月14日生れ O型 神奈川県横浜市出身 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀行は「ひでゆき」が正しいが、「しゅうこう」と呼ばれることが多い。本名「保」。1934年院生。1940年入段。1959年八段。1963年10月18日九段。1998年10月(老齢を理由に)引退。 若い頃は山部俊郎、梶原武雄と並んで「戦後派三羽烏」と呼ばれた。1998年10月引退後、名誉棋聖となのる。年を取ってから若手の育成を目的にした「秀行塾」を開催。1999年11月24日、日本棋院を脱退、「独自のアマ免状を発行する」と記者会見。2003年7月1日、日本棋院復帰、「独自免状の発行を行わない」と確約。2009年5月8日死亡、享年83歳。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
棋風:豪快にして華麗 揮毫:無悟(さとることなし)、大道無門(だいどうむもん) 藤沢秀行著作集 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル獲得数:23個(うち世界タイトル:0個)
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【1992年12月12日 読売新聞「顔」】 藤沢秀行 ふじさわ・しゅうこう 横浜市出身。5歳で碁を覚え14歳でプロ入り。1977年、第1期棋聖を獲得し、以来6連覇を達成。1967年に初めて王座を獲得。 「タイトルを守ったからといって、感じることは特にない」。67歳で通算5期防衛という偉業なのに実にあっさり語った。勝ち負けがすべてと考えられがちなプロの世界だが、「勝負師」と呼ばれるのを嫌う。「碁は芸術です。芸を高めれば、結果は後からついてくる」を哲学にしてきたためだろう。「そりゃあプロだから勝たなきゃいかん時もある」というが、「相手が、よく知っている光ちゃん(小林光一棋聖)だったから、かえってよかった」との言葉の陰にはむしろ、なみなみならぬ自信がのぞいた。 58歳で胃ガンの手術、62歳でリンパガンのコバルト治療を受けた。別人のようにやせこけながらも一線に復帰した。「からだはきついけれど、碁からは逃げられません」かつて浴びるほど飲んだ酒も、いまは月に一、二度。量も減ってきた。年間の対局を40局もこなすから体力維持の努力は欠かせない。けれども、競輪、競馬への打ち込みは変わらない。 若手の育成には、以前から気にし続けてきた。いまや日本は実力ナンバーワンの地位を中国や韓国に脅かされている。それだけに「努力が一番。遊ぶなとは言わないが、日々これ勝負の心がけで勉強しなきゃ」と奮起を促す。えんま大王と地獄の王位をかけて碁を打つ夢を見たことがある。赤鬼と青鬼がぐるりと取り囲んでいる。その時の"辞世"の句は「赤と青 碁盤に据えて大王と 冠かける三途の川」。えんま様も何するものぞ、の意気があふれている。(文化部・横内猛) |