伊藤友恵
いとう ともえ
Ito Tomoe

1907年12月10日生れ

栃木県足利市出身
1917年(大正6年)喜多文子に入門。1924年(大正13年)入段。1929年(昭和4年)二段、1940年(昭和15年)三段、1943年(昭和18年)四段、1959年(昭和34年)五段。1987年没。門下に淡路修三、安藤武夫、泉谷政憲。
棋風:
揮毫:
タイトル獲得数:8個(うち世界タイトル:0個)
対局日棋戦名年齢コメント
1979年(第1期)女流鶴聖戦優勝72歳
1965年(第12期)女流選手権戦優勝56歳
1962年(第10期)女流選手権戦優勝54歳5連覇
1961年(第9期)女流選手権戦優勝53歳
1960年(第8期)女流選手権戦優勝52歳
1958年(第7期)女流選手権戦優勝51歳
1957年(第6期)女流選手権戦優勝50歳
1952年(第1期)女流選手権戦優勝45歳
Wikipediaの情報
【週刊碁(2010年10月25日号) 「女流列伝」(福井正明九段)より】
明治末から後進を育てた喜多文子先生の努力が実を結んだのは、戦後、喜多の弟子の伊藤友恵先生の活躍によるところが大きいと思います。現在でこそ女流棋戦は女流本因坊戦、女流名人戦、女流棋聖戦と花盛りですが、伊藤先生が20代、30代のころは何もなし。昭和27年になってやっと女流選手権戦(女流本因坊戦の前身)が創設されました。これに優勝したのが当時45歳の伊藤です。以後、水を得た魚のごとし。女流選手権戦は第1期のほかに第6期から第10期まで5連覇。第12期も制し、50代の黄金時代を迎えます。その頃の伊藤先生の対局姿はハンカチを噛みしめて気合を前面に出す。一日ではんかちが4、5枚がボロボロになったとか。特筆すべきは昭和54年の第1期女流鶴聖戦優勝でしょう。このとき伊藤は72歳。空前絶後の高年齢タイトル獲得記録です。昭和62年没。盤上盤外に力いっぱい生き、悔いのない充実した人生だったと思います。