彦坂直人 ひこさか なおと Hikosaka Naoto | 1962年3月17日生れ 愛知県名古屋市出身 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中部総本部所属。酒井利雄門下。1974年入門。1976年入段。1977年二段。1978年三段。1979年四段。1981年五段。1983年六段。1985年七段。1989年八段。1992年九段。 1987年訪中。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
棋風:手厚く、鋭くて戦上手。足早に進んでいる自由奔放な碁。気分で打つタイプ。 揮毫: | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル獲得数:1個(うち世界タイトル:0個)
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2001年1月1日以降国際棋戦成績=0勝4敗(対韓国:0勝2敗、対中国:0勝2敗、対他:0勝0敗)
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日本棋院の情報 読売新聞「岡目八目」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【2006年11月27日 朝日新聞「棋士快声」】 第32期名人戦リーグ入りを決める最終予選決勝は、終盤、もつれにもつれた。終局しても相手が棋譜をじっと見つめなおした。半目勝ちで5期ぶりのリーグ復帰が確認されるまで10分近くかかった。「長かったですね。前にリーグにいたときのことは大昔という感じです」 名古屋生れの名古屋育ち。かつて十段のタイトルを獲得した実力者だ。リーグ戦では、日本棋院中部総本部所属でただ一人の参加棋士として地元の期待を一身に集める。自分から仕掛けていく棋風で、タイプとしては小林覚九段に近いという。「名人に続いて棋聖挑戦の覚さんを見習いたい。同世代として私も頑張らないと」 オールドファンならご記憶の方も多いだろう。大竹英雄名人(当時)に趙治勲八段(当時)が挑んだ1980年の第5期七番勝負。「無勝負」となった一番で、この人が記録係を務めていたことを。趙がコウダテを打たないといけないのに「僕の取り番」と聞き、とっさに「はい」と答えてしまった。「無勝負」の裁定に世間は大騒ぎになった。「タイトル戦では記録係が2人制になったし、ルールも明確になりました。未熟な自分が犠牲になった面はあるけれど、いい形に向かったと思います。治勲さんとは仲良くさせてもらっています」 「あまり強くない」というお酒は気の合う仲間と一緒だと朝まで付き合う。「アマ初段クラス」というゴルフも年間30回はコースを廻る。昔気質の気さくな勝負師だ。 【1998年6月3日 産経新聞】 彦坂直人十段 人柄は…吉田美香前女流本因坊 十段位獲得、おめでとうございます。大阪で行われた五番勝負の第四局、対局場へ勉強に行きましたが、終局後、負けたあとの彦坂さんの明るい表情の中に、今までとは違うたくましい勝負師の顔を拝見しました。 後輩の面倒見がよく、何でもウンウンと聞いてくれます。ふところが広くて深いんです。昔のことですが、秀行塾(藤沢秀行名誉棋聖の研究会)で彦坂さん、依田さん、私の三人が負けて、依田さんの「反省しなければ」という発案に付き合って、服を着たままジャブジャブ川に入りだしたことがありました。懐かしい思い出です。 女流本因坊を取ったときは、「ようやく実力どおりになってきましたね。私は修行中です」という年賀状をいただきました。こんどは彦坂さんがビッグタイトルを取って、これからますます大舞台で、だれにもまねのできないセンスのいい碁を打ってもらえると思うとわくわくしてきます。 |