石倉昇 いしくら のぼる 石仓升 Ishikura Noboru | 1954年6月22日生れ 神奈川県横浜市出身 | |
東京大学法学部卒。元学生本因坊。日本興業銀行に入行後、プロ棋士の道へ。1980年入段。2000年4月7日九段。 1985,1989,1999年NHK囲碁講座を担当し好評を博す。初心者のレッスンプロとしての地位を確立、定評がある。囲碁ビデオへの出演は70本以上に及ぶ。 | ||
棋風: 揮毫: 石倉昇著作集 | ||
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日本棋院の情報 読売新聞「岡目八目」 石倉昇のHP 東急渋谷店の囲碁教室 囲碁サロン有心の囲碁教室 | ||
【1988年6月30日 読売新聞(夕刊)】 東大の法学部を卒業して、日本興業銀行に入った。就職活動を間近に控え、いま、なんとなく腰の落ち着かない学生からみれば、極めつけの超エリート・コースかもしれない。それを二年で、あっさり辞めてしまった。飛び込んだのが囲碁の世界である。 黒白の石との“なれそめ”は5歳のとき。銀行マンの父に手ほどきを受けた。素質はあった。麻布高2年で高校本因坊、大学3年で学生本因坊と、アマ時代の棋歴は華々しい。それにしても、なぜ“転職”を? 「地をがっちり取っていこうと思っていたんですが、そのうち、模様ができそうになってきたんです。囲碁は、最初の方針にこだわり続けるより、柔軟な対応が必要ですから」。自らの進路変更を囲碁にたとえた。きっかけはサラリーマン生活を送っていた1978年にやって来た。囲碁の日本代表団の一員としてプロと一緒に訪中、予想以上の好成績をあげる。碁打ちとしての可能性が見えた。で、それにかけて、ここ一番、冒険してみようと。 翌年、退社して受けたプロの入段試験。55人の中で合格者はたった2人という難関を突破してみせた。今、34歳、六段。「40歳までには九段になりたい」という。子供のころからこの道一筋という棋士が多い中にあって、この人、随分と回り道をしたことは確かだ。「自分の人生をやり直すわけにはいかない。これで良かったと思うんです。社会に出て、アマチュアの世界も見てきたことが、必ずプラスになると思うんです」 5年前から東京・渋谷のカルチャー教室で週3回、初心者や中級者向けに教えている。そこで某日、昼休みをねらって顔を出してみた。女性の姿が目立つ。「女性の方が熱心で定着率もいいんです。将棋と違って、負けても決定的なダメージを受けることがない。自分の“庭”を少しずつ広げていくゲームの性質が向いているんだと思うんです。ただ、女性は厳しい碁を打つ人が多い。ストレス解消になるんでしょうか」対局場で会えば、また違った印象だったかもしれない。勝負の世界に生きる厳しさは、どこに包み隠されているのか。そんな思いを抱かせるほど、語り口も表情も、柔和だった。 こんな経歴を持つこの人らしく、ライフワークとして「初級者にも楽しんでもらうこと」に取り組んでいる。「新聞のその種の欄は、有段者でもないかぎり、なかなか、理解できない。だけど本当に大切なのは、初級者でもプロの対局の面白さがわかること。プロの“感覚”を理論的に詰めて、それをアマチュアの言葉に翻訳して、やってみたいと考えているんです」 学生時代に、女子大で結成されたばかりの囲碁部を指導した経験が、いま大きな財産となっている。カルチャー教室での“教え子”はざっと200人。二十級の初心者から、段位を持つ人まで、さまざまな棋力の人たちが、ともに話に耳を傾ける。「無限に可能性のある世界」とほれ込んだ囲碁人生。今は「中盤戦で、これからの一手一手が難しいところ」と解説してくれた。(清水 慶一記者) ◆世界中に碁を広めたい◆ 〈私の夢〉やっぱり碁と関係しちゃいますね。碁を世界に広めたい。僕がこの道を選んだときそう思った。大変かもしれないけど。 〈お金とは〉お金には縁のない世界なのですが、思い出すのは銀行を辞めるとき、上司からいわれた「親の世話にはなるな」という言葉。浮き沈みのあるこの世界にいるからこそ、ありがたみを感じます。銀行にいればかえって考えなかったと思う。 |