石田芳夫
いしだ よしお
Ishida Yoshio

1948年8月15日生
AB型
愛知県出身
木谷実九段門下。1957年9歳で入門。木谷三羽烏の一人。1963年入段。1964年二段。1965年三段。1966年四段。1967年五段。1969年六段。1970年七段。1971年22歳で史上最年少の本因坊になる。1973年八段。1974年九段に推挙される。1998年5月7日800勝達成。2004年2月19日900勝達成。2010年5月20日1000勝達成。
木谷三羽烏(石田芳夫、加藤正夫武宮正樹)の一人。門下に高橋秀夫。
棋風:形勢判断に明るく、足早に展開して碁をリードするのが特長。各所で地を稼ぐタイプで、どちらかと言うと戦いは好まない。ヨセの計算が速い。「コンピューター」との異名がある。
揮毫:無門(むもん)
石田芳夫著作集
タイトル獲得数:24個(うち世界タイトル:1個)
対局日棋戦名年齢コメント
2001年(48期)NHK杯優勝53歳
1990年(37期)NHK杯優勝42歳
1988年(7期)NEC杯優勝40歳
1988年(1回)IBM杯優勝40歳
1987年(34期)NHK杯優勝39歳
1984年(10期)天元36歳
1984年(16期)早碁選手権戦優勝36歳
1983年(15期)早碁選手権戦優勝35歳
1980年(12期)早碁選手権戦優勝32歳
1978年(26期)王座30歳
1975年(30期)本因坊27歳5連覇
1974年(13期)旧名人26歳3人目の名人本因坊
1974年(29期)本因坊26歳4連覇
1974年(22期)王座26歳
1973年(1期)日本シリーズ優勝25歳
1973年(28期)本因坊25歳3連覇
1972年(27期)本因坊24歳2連覇
1972年(9期)プロ十傑戦優勝24歳
1971年(8期)プロ十傑戦優勝23歳
1971年(26期)本因坊22歳史上最年少の本因坊
1970年(18期)日本棋院選手権戦優勝22歳
1969年(17期)日本棋院選手権戦優勝21歳
1969年(1期)新鋭トーナメント戦優勝21歳
1968年(12期)首相杯優勝20歳
2001年1月1日以降国際棋戦成績=0勝1敗(対韓国:0勝0敗、対中国:0勝1敗、対他:0勝0敗)
対局日棋戦名勝敗対戦相手
2005.04.09富士通杯第1回戦兪斌九段(中国)
日本棋院の情報 中国ブログの情報 秀芳囲碁さろん(代々木上原)
写真
【2010年5月20日 日本棋院ニュース
石田芳夫九段が20日、東京・日本棋院でおこなわれた第59期王座戦予選Bで三王裕孝九段に黒番半目勝ちし、公式戦通算1000勝(604敗)を達成しました。史上11人目の達成です。コンピューターと呼ばれる緻密な棋風はいまも健在。節目の勝利もピッタリ半目勝ちで飾った。
・61歳9ヶ月での達成、史上10位 (1位は二十五世本因坊治勲の43歳1ヶ月)
・入段から47年1ヶ月での達成、史上10位 (1位は二十五世本因坊治勲の31年4ヶ月)
・達成時勝率 .623、史上11位 (1位は小林光一九段の.680)
・初勝利 昭和38年5月1日大手合 泉谷政憲二段に黒番中押勝ち

【2006年8月12日 朝日新聞「棋士快声」(荒谷一成)】
1971年に22歳で本因坊になり5連覇。1974年には史上3人目の名人本因坊と昭和囲碁史を彩った「コンピュータ」だ。規定により2年後の還暦から24世本因坊秀芳(しゅうほう)を名乗る。14歳で入段し棋士44年目。「昭和60年(1985年)の天元戦を最後に挑戦手合に出ていないので、元気が良かったのは前半の半分だけだね」
若くして本因坊になった頃は、東京・四谷の木谷道場に寝泊りしており、「部屋住込みの本因坊」と話題になったが、いまや髪には白いものが交じる。東京の棋士会長としては、囲碁愛好者の長期にわたる減少と、極端な高齢化が気になるようだ。「アマチュアあっての囲碁界ですからね。全然、楽観できない。サラリーマンには碁が安上がりで定年後に死ぬまで楽しめる利点を、教育関係者には子供の脳の活性化と礼儀の習得に役立つことを知ってほしい」
普及では悲観派に見える一方、国際戦での日本勢不振には楽観派である。「日本の碁は布石からヨセまでゆっくりしているのに対し、韓国の碁はことに仕掛けが速く、日本勢はタイミングが合わないきらいがあった。でも慣れていけば、日本の若手の実力はそんなに劣っているはずはないと思っていますがね」
棋聖、名人、本因坊の三大タイトルで22歳は今なお最年少獲得記録。「ちょっと難しそうだ」といってこんな目標を明かした。「いつか、秀行先生(藤沢秀行名誉棋聖)の持つ三大タイトル最年長獲得記録(56歳で棋聖6連覇)を更新できれば愉快です」