宮本直毅
みやもと なおき
Miyamoto Naoki

1934年12月9日生れ

兵庫県出身
関西棋院所属 1950年入段。関西棋院のプロ棋士第1号。1969年9月九段。2012年10月26日、肝細胞がんで死去。
宮本義久九段は弟。
棋風:
揮毫:
1967年(?期)関西棋院選手権優勝
1958年(3期)関西棋院第一位決定戦優勝
関西棋院の情報
【2012年11月29日 産経新聞(寄稿 本紙観戦記者・斎藤謙明)】

「中日囲碁交流功労賞」の授賞式に出席した際の宮本直毅九段(中央)。日中の囲碁交流に対する長年の貢献が評価された =平成18年、中国・北京

「うたお思ても、声が出えへんね」このことばが思い出の奥にある。昭和55年、宮本さんが社長をしていた株式会社囲碁新潮が倒産して3カ月ぐらいのことか。大阪・北新地のスナックにいた。宮本さんの河内音頭は絶品だった。久しぶりにどうかな、とうながしても、じっと水割りの底を見ていた。「なんべんも死のかと思てな」
40年までは碁盤の中で、そのあとは外へ出て、と宮本さんは生きる土俵を変えている。25年、日本棋院から関西棋院が独立するに際して初段に。34年、戦後派棋士の先頭を切って本因坊戦リーグに入る。上り坂の道に影を落としたのは、36年、親友の石嶺真一(六段)が疾走する電車に身を投げた事件である。あらためて周囲を見直すと、歴史の浅い関西棋院では棋戦が限られ、稽古も少ない。なんとかしなければ、という思いに駆られるようになる。37年、第2期名人戦リーグに入り、5勝3敗で残留した。木谷実、藤沢朋斎、半田道玄に勝っている。呉清源には不戦勝だった。当時の名だたる棋士に勝利し、一流の証明を手にした。
文化大革命のさなかに訪中し、周恩来首相、陳毅副首相と会食する機会があって、中国の囲碁のレベルアップに力を貸してほしいと頼まれた。2人に人間の大きさを見たという。それが日中の囲碁交流に奔走するきっかけとなった。第3期名人戦、林海峰との最終局が陥落決定戦になった。「ぼーっとしてて」不本意な碁で負けた。翌年、その林が挑戦者になり、そして坂田栄男から名人を奪う。8つも年下だ。第一人者への道が消えたと思った。
41年、関西棋院の機関誌「囲碁新潮」の発行を株式会社にし、宮本さんが社長になって普及活動に乗り出した。困難を見てもずかずかと踏みこんでいく。逃げない人だった。級の人向きの「月刊碁学」を発行し、かなりな部数を出した。同誌への連載をまとめた著書「天下五目の必勝戦略」でセンセーションを起こしたこともあったが、14年で破局を迎えたのである。負債を返すために、指導碁に精を出す年月が長かった。稽古といっても、みんなそのあとを楽しみにしていた。あたりを包み込むような飲みっぷりにほれていた。やがて返し終わってもその形は続き、使い道にとまどっていた時期もある。
中国行きは100回を超えた。乾杯、乾杯を鷹揚(おうよう)に受ける光景が見えるようだ。千変万化する局面の感じをことばで言い表すのに妙を得ていた。まれな語才に、筆者は十段戦と関西棋院第一位戦の観戦記で助けられてきた。これからはどうしようか。究極の目標は自分自身ではなかろうか。どれだけのことを味わい、どれだけ精神をゆたかにしたかが勝負である。宮本さんの「人の何倍か」は酒だけではない。喜怒哀楽がけた外れだった。人生の勝利者だと筆者は思う。宮本さんを敬愛する人がどれだけ多いことか。それこそが、人生の余韻だろう。

本紙主催十段戦の観戦記解説者を長年務めた囲碁棋士で関西棋院顧問の宮本直毅九段は10月26日、肝細胞がんのため77歳で死去。