林海峰 リン カイホウ Lin Haifeng リン ハイフェン | 1942年5月6日生れ B型 上海出身 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1952年呉清源に見出されて来日。1953年東京本院院生。1954年関西総本部院生。1955年入段(12歳)。1967年九段。大竹英雄九段と一時代を築き「竹林時代」といわれた。2002年8月1日から名誉天元を名乗る。張栩九段の師匠としても有名。林芳美さんは林海峰九段の実娘。2005年4月28日紫綬褒章受章。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
棋風:序盤から地を稼ぐタイプ。戦いは拒まない。終盤は粘りに粘る粘り腰。「二枚腰」との異名がある。 揮毫:無我(むが) 林海峰著作集 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
タイトル獲得数:35個(うち世界タイトル:1個)
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2001年1月1日以降国際棋戦成績=6勝17敗(対韓国:1勝10敗、対中国:2勝5敗、対他:3勝2敗)
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【2014年2月21日 『NHK囲碁講座』2014年2月号より】 林海峰(りん・かいほう)・71歳。名人、本因坊をはじめとして数多くのタイトルを獲得し、天元5連覇の実績によって現在は名誉天元の称号を名乗る大棋士である。その足跡をたどれば、そのまま「昭和、平成の囲碁史になる」と称しても過言ではない。そんな林名誉天元に、囲碁との出会いと、プロ棋士を志して故郷・台湾を離れて来日し、プロ入りするまでの経緯をお話しいただこう。 来日まで 碁を覚えたきっかけは、父が無類の碁好きで、兄、姉と、全員が碁を打つ家族だったということです。なので家には毎日のように碁を打ちに来るお客さんがいて、それを何となく見ているうちに覚えました。8歳になる前だったようですから、プロ棋士になる者としては、むしろ遅いほうだったと言えるでしょうか。始めた当初は、あまり碁が好きではなかったと記憶しています。でも碁を打てばアメ玉をもらえたりしたから、それに釣られてやっていたようなものです。父は弱かったので半年くらいで追い越しましたが、それからは父が碁敵に負けると、僕がその敵を討ちにいくような格好になりました。勝つとまたアメ玉がもらえるからね。そうこうしているうちに小学生以下の少年少女大会があって、僕はこれに優勝しました。そして1952(昭和27)年、呉清源先生が初めて台湾に招かれたのですが、この歓迎セレモニーの席上で、僕は先生に六子で教わる機会を得ました。結果は一目負け――つまり全然お話にならないレベルだったのです。でも台湾の後援者が先生に「この子の見込みはどうだ?」と聞いたところ、先生も「全然駄目だ」とも言いにくかったのでしょうね。「もしプロを目指すのなら、早く日本に来たほうがいい」と…。で、台湾の後援者たちはすっかりその気になりまして、すぐに手続きをして、その2か月後には、僕は日本に来ていました。10歳のときのことです。ただし僕自身は「日本でプロ棋士になる」というような強い意志は持っていなかった。ただ飛行機に乗って行けるということで、それだけを楽しみにしていたのですね。父の親友が京都にいた関係で、まずは半年ほどそちらへ預けられることとなり、言葉にも慣れてきたころに東京へ出て院生となりました。 おまけでの入段 院生は最初、3級からのスタートだったのですが、すぐ負けが込んで4級に落ちてしまいました。台湾でもてはやされて日本に来たわけですが、日本では自分の力が全然大したことがないことも分かったわけです。それでちょっとふてくされたというか、なかなか勉強にも身が入らなくなり、初めの1、2年はあまり強くならなかったですね。東京でお世話になっていた家というのが、これまた自由な家でして…。商売をしている関係で、夜の帰りが遅いのです。僕はその時間は寝ていて、朝には学校に行く。一方で向こうはまだ寝ているから、ほとんど顔を合わせることがない。だからまったく監督もされず、僕は自由気ままにやっていた。碁も強くなるわけがありません。そうしたら台湾の父から「そんなにやる気がないのなら、日本にいてもしかたがない。帰ってきなさい」という内容の手紙が来て、結局その東京の家は出され、また京都に戻ることになって、関西総本部の院生になりました。のんびりとしていた僕も「さすがにこれはまずいぞ」と気付き、半年後の入段予選を目指して、1日10時間くらいは勉強するようになりました。この時期に少し強くなったように思います。その入段予選ですが、最終戦の一局前で負かされ、入段の望みを絶たれました。最終戦に勝ってもトップにはなれないことが確定してしまったのです。そのときに当時の院生師範であった瀬川良雄先生(九段=故人)が「とにかく最終戦にベストを尽くせ」と言ってくださり、それでその最終戦には勝つことができました。しかし成績は二番目――関西はずっと毎年一人しか入段枠がありませんでしたから、僕としては「来年また頑張ろう」という気でいたわけです。ところが瀬川先生が「林は今年の内容がいいから入段させてやってくれないか」ということで、当時の理事会に推薦してくれたのです。それで、おまけという形で入段させていただくことになったのでした。翌年からはまたずっと枠が一人に戻っていますから、本当に瀬川先生には感謝です。もしこの年に入れなかったら、翌年に入れるかどうかも分からないですし、もう台湾に帰されていたかもしれませんから。 【2006年11月13日 朝日新聞「棋士快声」(荒谷一成)】 自身が持つ通算の最多勝記録を10月、1300勝の大台に乗せた。「竹林(ちくりん)」と並び称される同い年の大竹英雄名誉碁聖は1143勝(歴代5位)。タフさでは断然水をあけている。「夢中でやってきただけなんだ、一局一局。よく長続きしたもんだね」 初勝利は1955年、入段した年の大手合だった。以来プロ52年目になる。23歳で坂田栄男名人を破って最年少名人に。59歳のときにも依田紀基名人への挑戦を果たした。名人リーグ在籍は旧名人戦を合わせて前人未到の通算39期。この間、名人が8期、本因坊と天元が各5期、十段と王座、碁聖が各1期。富士通杯で優勝1回。戦歴は輝かしいの一語に尽き、「鉄人」と呼ぶにふさわしい。棋士人生の棋風の異名「二枚腰」通りだ。「碁はもともと勝ちにいくものではなく、相手が負けてくれるのを待つものなんだと思う。どっちが敗着を打つか根競べだよ」 第一線に立ち続けられたのは、「辛抱の碁」と熱心な研究のお陰だろう。「負けるのはものすごく嫌だが、敗因が分かれば気持ちを切り替えられる。僕は楽観派で『運は人よりいい』と信じているんだ。運より他に頼るものがないからね」(笑い)。ゆったりした構えも、半世紀を超す活躍の支えになったに違いない。残る目標を問うと「名人リーグにもう1回、通算40期とキリがいいから。それと棋聖も。リーグ入りは相当難しそうだが」。七大タイトルで縁が薄いのは棋聖だけである。 【2006年10月19日 共同通信】 10月19日行われた棋聖戦予選で、林海峰名誉天元が安斎伸彰三段に勝ち、史上初の通算1300勝を達成した。達成時の成績は1300勝793敗1持碁2無勝負。中国・上海出身で1952年に来日。1955年に12歳で入段。現在64歳5カ月で、入段から51年6カ月で1300勝到達を達成した。通算勝利第2位は故・加藤正夫名誉王座の1254勝。主なタイトルは名人8期、本因坊、天元各5期などで、通算タイトル獲得数は35。門下に張栩名人・王座・碁聖がいる。 【「碁ワールド」2006年8月号】 私は1952年(昭和27年)、10歳のときに来日しました。台湾の少年大会で優勝し、呉清源先生と打っていただいたのをきっかけに「日本で囲碁修行をさせよう」となってね。僕自身は飛行機に乗れるのが楽しみで、そのために日本へ来たようなもの。だから棋士を目指す自覚はまるで持っておらず、碁の勉強もしないで遊んでばかりだった。 そんな調子で入段できる訳がない。予選のそのまた予選で負けちゃうぐらい。あまりに勉強しなかったので、とうとう「やる気がないなら帰って来い」という父の手紙が送られてきた。そのとき「このまま台湾に帰るのはつらい」と思ったんだ。子供心にも最大に送り出してくれた人たちに顔向けできない、と。それから次の入段予選までの半年間は必死で勉強した。毎日8時間から10時間は盤の前に座っていたね。目標ができてやっと真剣になれた。 でも入段予選では最終局を残して2位。関西総本部の入段枠は当時1名だけだったから、もう入段できないものと思っていた。そんなとき、院生師範だった瀬川先生(民雄九段・故人)が「たとえ負けても最後までがんばって打つように」と励ましてくれた。せっかく先生にそういって頂いたのだから、と一生懸命に打ったよ。そうしたら「今年の予選は内容がよい」というので、特別に僕を含めた3人が入段することに決まったんだ。本当に幸運だった。もし瀬川先生に声を掛けていただけなかったら、もし「もう無理だ」と腐っていい加減に打っていたら。入段できずに台湾に戻されていたかもしれない。 目標を持つこと、そして最後までがんばることで道が開けることがあるんだよ。 【2005年11月10日 読売新聞(西部)】 林は、日中戦争中の1942年(昭和17年)、中国・上海に生まれた。9人兄弟の末っ子で、父の國珪は東京帝国大学に留学し、日本統治下の台湾で副総領事を務めた、国民党政府の官僚だった。戦後、中国では蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍の内戦が始まり、国民党のグループは敗れて台湾に渡るが、このとき、林の一家も、行動を共にした。 父は無類の囲碁好きだった。その父が友人たちと打つのを見て、林はいつの間にかルールを覚えたという。負けず嫌いの彼は、メキメキと上達し、9歳のときに台湾少年囲碁大会で優勝、天才少年として注目される。 運命が決まったのは1952年(昭和27年)、10歳の時だった。木谷のライバルで、日本の囲碁界に揺るぎない地位を築いていた呉清源が台湾に凱旋(がいせん)帰国、首都・台北の公会堂で歓迎の集いが開かれた際、呉に指導碁を打ってもらう機会に恵まれたのである。 それは千人余りの大観衆が見守る中で公開対局だった。林はすっかり緊張してコチコチになる。ハンデの置き石を六つ置き、必死に戦ったが、惜しくも1目負けを喫してしまう。しかし呉がその才能を評価したため、周囲で日本への留学話がどんどん進んでいった。 |