期間 | 氏名 | 身分 | 副理事長 | 辞任理由 |
16代 (2012- ) | 和田紀夫 | 日本電信電話株式会社相談役 | 山城宏
| 2012年6月26日、第5回理事会において大竹英雄前理事長の任期満了の伴い、新たに理事長に選任さた。就任したとき日本棋院が4年間赤字続きで、この赤字解消が最大の課題。
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15代 (2008-2012年) | 大竹英雄 | 棋士 |
| 2008年12月、元デンソー会長、岡部弘理事長の辞意を受けて、急きょ登場した。完全な大竹体制となった09年度の決算は1200万円の赤字となった。10年度も2700万円の赤字予算。予算規模は年間約45億円。インターネット事業など一部黒字もあるが、ほとんどがじり貧状態となっている。理事長を2期務め満期となる2012年6月26日をもって理事長を辞した。公益財団法人移行(2011年4月)などを推進した。大竹理事長は「新しい方に引っ張っていただける体制ができた。今後は私のできる範囲のことをさせていただく」と語った。
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14代 (2006-2008年) | 岡部弘 | デンソー会長 | 小林光一
| 2006年7月、赤字決算続きの棋院の理事長に就任。職員削減、棋士手当カットなどの改革を断行し、財政を就任当年度から黒字に転換させた。2006年12月時点の日本棋院の役員は以下の通り。在任期間は約2年半。最後の年度は途中ではあったが、3年間はすべて黒字(06年度500万円、07年度500万円、08年度2000万円)という成果をあげた。公益法人申請に向け、棋士の活動を評価するポイント制の導入など内部整備を進めた。しかし、これが棋士の混乱と反発を招き棋士の親睦(しんぼく)団体である棋士会と執行部が対立。理事選挙などを経て、岡部氏の退任となった。 |
13代 (2004-2006年) | 加藤正夫 | 棋士 | 工藤紀夫
| 2004年6月、利光松男前理事長の辞任により加藤正夫九段が理事長に就任。志半ばの2004年12月暮れに脳梗塞に倒れ、2004年12月30日に世を去った。財政建て直しや棋戦の近代化など棋院の改革に先頭に立って取り組みを開始。財政赤字解消に向けて、年間1億円かかっていた大手合を廃止し、昇段はタイトル獲得や一般棋戦の成績を反映させるなど実力重視に転換。コミ(先手有利を是正するためのハンデ)を従来の5目半から6目半に改め、実情に合わせた。さらに時代の変化に合わせてインターネット利用のアマ会員サービス事業にシフトさせつつある。しかし囲碁界は、(1)囲碁愛好者の長期にわたる漸減、(2)プロの国際戦不振、(3)日本棋院の財政赤字、の「3つの不振」に悩む。2005年の囲碁愛好者は「レジャー白書」によれば約350万人。30年ほど前の全盛期に比べて半減した上、3分の2は高年層に偏している。
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12代 (1999-2004年) | 利光松男 | 元日本航空社長
| 加藤正夫
| 1999年4月日本棋院理事長に就任。日本棋院改革を主導したが、財政建て直しや棋戦の近代化など棋院の改革に棋士が反発したため、2004年4月体調不良を理由に辞任。2004年11月9日死亡(自殺)。5年間の在任中、危機的状況にあった日本棋院の建て直しに着手し、生き残りのため棋院の古い体質を変革しようと、経営に経済合理性を導入するとともに、オープンな情報開示方針を打ち出し、実力主義の導入とともに国際化の促進を図った。また棋院のネット対局プロジェクトをスタートさせるとともに、アマチュアにも目を向けた普及方針を打ち出し、囲碁殿堂資料館の開設につなげた。大手合の廃止など棋士のあり方についても手をつけ、いろいろな改革が始まった。
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11代 (1993-98年) | 渡辺文夫 | 元日本航空会長
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| 棋院の収支はバブル期までは順調に推移したが、崩壊後は悪化の一途。1994度から赤字に転落、その後は棋戦の契約金を除き、免状発行料、出版事業など主な収入源は激減し、長期凋落(ちょうらく)傾向にある。そんな中、1997年5月17日・一般紙に「囲碁をオリンピックに」の記事が踊った。「日本棋院渡辺文夫理事長と日本ペア囲碁協会吉国一郎会長が5月16日に記者会見して、囲碁をオリンピックの正式競技にする運動に取り組む事を明らかにした。頭脳スポーツの分野では既にチェスが1990年に、ブリッジが1995年にIOCからオリンピックスポーツとして認められている。「「囲碁も立派な頭脳スポーツであり、2008年の夏季オリンピックを目標にしたい」」と2人は述べている。」とある。
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10代 (1988-93年) | 朝田静夫 | 元日本航空社長
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| 日本航空協会会長、国際博覧会協会会長など多数の公職を歴任。趣味の囲碁は六段の腕前で、日本棋院の理事長、総裁を務めた。人当たりは良いが、芯は強く、頭の回転が早いことから「カミソリ」と呼ばれた。御巣鷹の尾根での日本航空123便墜落事故を主題にした山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」に登場するワンマン経営者「小暮社長」のモデルともいわれる。
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9代 (1986-87年) | 色部義明 | 協和銀行相談役 |
| 1986年7月、財団法人・日本棋院の財政再建のために色部理事長(協和銀行相談役)は請われて就任、合理化を進めて来たが、棋士が反発したため1987年12月18日、色部義明理事長は健康を理由に今年限りで理事長を辞任することを明らかにした。 |
8代 (1978-86年) | 坂田栄男 | 棋士 |
| 1978年6月27日役員改選で坂田栄男九段が理事長に就任した。日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた後、1988年7月より日本棋院顧問。
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7代 (1975-78年) | 長谷川章 | 棋士 |
| 戦後は1946年の大手合から参加、同年の日本棋院新体制で理事に就任し、岩本薫、村島誼紀らと日本棋院の再建、新開館建設に尽力した。1975年に名人戦の朝日新聞移管問題による有光次郎理事長辞任の後を受けて、日本棋院理事長となり、名人戦契約問題を収拾。読売新聞との訴訟の中で、和解案である棋聖戦創設を実現した。また『週刊碁』刊行を発案した。1978年辞任し顧問となる。
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6代 (1956-75年) | 有光次郎 |
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5代 (1955-56年) | 三好英之 |
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4代 (1951-55年) | 足立正 |
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3代 (1949-51年) | 津島寿一 |
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2代 (1948-49年) | 岩本薫 | 棋士 |
| 1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。囲碁の海外普及に尽力し、また私財を投じた岩本基金により、サンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。
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初代 (1946-48年) | 瀬越憲作 | 棋士 |
| 終戦後は岩本薫らと日本棋院の再建に尽力。1946年(昭和21年)、日本棋院初代理事長に就任。同年4月、大手合を再開、雑誌「棋道」も復刊させる。1948年(昭和23年)に日本棋院会館(港区芝高輪)を開館。しかし同年読売新聞紙上での失言により理事長を辞任。その後も囲碁の発展、国内、国際普及に粉骨。
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